|「家族が頑張れば何とかなる」では、もう支えきれない。
ある日、親が認知症になる。
ある日、親が歩けなくなる。
そしてある日、介護する側の人生まで、静かに止まり始める。
それは、特別な家族に起こる悲劇ではない。
明日の私たちの家に起こるかもしれない、日本社会そのものの問題なのだ。
|「スノードロップ」という映画を知った
つい最近、「スノードロップ」という映画のことを知った。
2025年に公開されたこの映画は、実際に起きた一家心中事件をモデルにした社会派ドラマだ。
モデルとなったのは、2015年、埼玉県深谷市で起きた「利根川一家心中事件」。
認知症を患う母親、病気によって仕事を続けられなくなった父親、そして両親の介護を担っていた娘。
生活困窮と介護が重なるなか、一家は利根川で心中を図った。
両親は亡くなり、三女だけが生き残った。
その後、三女は母親に対する殺人と父親に対する自殺幇助の罪に問われ、懲役4年の実刑判決を受けている。
映画「スノードロップ」は、この実際の事件をモデルに、認知症の母、病気で働けなくなった父、そして介護のために仕事を辞めた娘という家族を描いている。
この事件が起きたとき、私はまだ日本に帰国していなかった。
だから、全く知らなかった。
もし私の人生に「親の介護」という問題が発生していなかったら、この事件に立ち止まることもなかったかもしれない。
それどころか――
現役時代に十分な年金を納めず、年金収入が少ない。
貯金もほとんどない。
そんな情報だけを聞いていたら、私は以前なら、
「自業自得なのではないか」
とさえ思っていたかもしれない。
子どもに負担を負わせたくない。
自分自身の衰えや老後の生活を考えて、若いうちから備えている。
そんな人から見れば、このご家族に厳しい見方をする人がいるのも、現実なのだと思う。
でも。
私は、親の介護が始まってから、少しずつ見える景色が変わっていった。
「もし、自分だったら?」
そう考えるようになったからだ。
|日本の介護問題は、「お金がない人」だけの問題ではない
どれくらいの人が、今の日本の現状に気づいているだろうか。
年金をもらっていても。
ある程度の貯蓄があっても。
両親が健康で、自分のことを自分でできるうちはいい。
しかし、認知症になったら?
障害を負ったら?
歩けなくなったら?
食事や排泄、入浴に介助が必要になったら?
そして、介護する側が仕事を辞めなければならなくなったら?
その瞬間から、それまでの「普通の老後」は、簡単に崩れていく。
しかも、あと数年、十数年先には、いわゆる「就職氷河期世代」が高齢期に入っていく。
これは、決して他人事ではない。
|日本の年金は、いくらなのか
厚生労働省の令和6年度末の資料を見ると、老齢年金受給権者の平均年金月額は、国民年金が59,310円、厚生年金保険が150,289円となっている。厚生年金の数字には基礎年金額が含まれている。
国民年金と厚生年金の平均月額
2024年度末時点・老齢年金受給権者の平均
| 年金の種類 | 平均月額 | 年間換算 |
|---|---|---|
| 国民年金 | 59,310円 | 711,720円 |
| 厚生年金保険 | 150,289円 | 1,803,468円 |
※厚生年金保険の平均月額には、老齢基礎年金の額が含まれる。
※平均額なので、加入期間や現役時代の報酬などによって個人差がある。
もちろん、大企業や官公庁などに長く勤めていた人の場合、これとは別に企業年金や退職給付などがあるケースもある。
つまり、「年金月15万円」という数字だけで、その人の老後の生活全体を判断することはできない。
我が家も、「年金だけで何とかなる」と単純に考えられる家庭ではない。
|我が家の場合――「十分な年金」があっても、介護が始まれば景色は変わる
「利根川一家心中事件」のご家族と、私の家族が大きく異なるのは、我が家の大黒柱だった父が、日本を代表する大企業に長く勤めていたことだ。
年相応の中間管理職で退職した。
父には失礼だが、いわゆる輝かしい出世をしたわけではない。
それでも、長年会社員として働いてきたため、年金だけを見れば、日常生活を送れる程度の収入は確保されている。
ところが。
実際に介護が始まると、「年金がある=安心」ではなくなる。
税金。
社会保険料。
固定資産税。
住居費。
車の所有・維持費。
電気。
ガス。
水道。
食費。
医療費。
そして介護費。
毎月、少しずつお金が出ていく。
しかも、現役世代のようにボーナスがあるわけではない。
「老後だから、生活費はそんなにかからないでしょう」
――そんな単純な話ではなかった。
|介護保険があっても、「無料」ではない
介護保険サービスの利用者負担は、原則1割。
しかし、一定以上の所得がある人は2割、さらに所得が高い人は3割となる。厚生労働省によれば、3割負担の対象は 一定以上の所得がある人で、制度上、負担割合は所得等によって判定される。
つまり、
「高齢者だから、介護サービスは1割」
ではない。
ここが、実際に親の介護を始めてみなければ見えにくいところだった。
|「たまにはリフレッシュを」――その3日間が、約10万円になる
Chapter 14でも書いたが、あるとき、
「お嬢さん、たまにはリフレッシュなさってきてください。3日間、ご両親をショートステイさせてみてはいかがでしょう」
と提案していただいた。
優しい言葉だった。
私自身も、できることなら少し休みたかった。
でも、そこで現実にぶつかった。
母は介護サービスの自己負担が1割。
父は3割負担。
我が家の場合、1日の自己負担額は、
| 1日あたり | 3日間 | |
|---|---|---|
| 母 | 約8,000円 | 約24,000円 |
| 父 | 約24,000円 | 約72,000円 |
| 合計 | 約32,000円 | 約96,000円 |
両親を3日間ショートステイさせるだけで、約96,000円。
つまり――
私の2泊3日の温泉旅行代金より高かった。
もちろん、これは我が家の実際の利用条件に基づく金額であり、すべての家庭が同じ金額になるわけではない。
それでも、私には衝撃だった。
「介護する人も休んでください」
と言われても、
その「休むためのお金」が、家計にとって大きな負担になる家庭がある。
これが介護の現実なのだ。
|施設に預ければ、すべて解決するわけではない
さらに、介護施設への入居を検討する場合、施設の種類や介護度、居住地域、サービス内容などによって費用は大きく異なる。
私の身近なケースでは、片親だけでも月25万~30万円程度を見込む必要があるケースがある。
両親なら、
月60万円。
年間なら、
720万円。
もちろん、これはすべての施設に当てはまる金額ではない。
しかし、ここで私が考えるようになったのは、
「一体、何年分のお金を用意しておけばいいのだろう?」
ということだった。
|介護費用を考えるとき、「今」だけを見てはいけない
大企業に勤めていたのなら、貯蓄もあるだろう。
退職金もあるだろう。
そう考える人もいると思う。
私自身も、以前ならそう考えていた。
でも、介護を経験してみると、私は別の時間軸で考えるようになった。
「父が亡くなる3年前」を想像してみる。
例えば、父が95歳で亡くなるとする。
今は自分で食べられる。
歩ける。
入浴できる。
トイレにも行ける。
本人の意思もしっかりしている。
それでも、90歳を超えれば、体力が今より衰えている可能性は高い。
食事量が減る。
筋力が落ちる。
転倒するかもしれない。
電動介護ベッドが必要になるかもしれない。
医療的なケアが必要になるかもしれない。
酸素療法などが必要になる可能性もある。
そして、在宅介護だけでは難しくなり、施設入居を検討する時期が来るかもしれない。
つまり、
人生の最後の数年間に、最も大きな介護費用が発生する可能性がある。
だからこそ、それまでの期間をどう乗り切るのかを考えなければならない。
|「介護できる家族」がいること自体が、リスクになる
年間720万円以上の支出を無理なく負担できる人なら、大きな問題にはならないかもしれない。
しかし、一般的な会社員世帯の多くにとって、年間720万円という金額は簡単に捻出できるものではない。
そこで、私は幼馴染に聞いた。
「この国は、いったいどうなっているの?」
彼女はこう答えた。
「母親がくも膜下出血で亡くなったから、父親の面倒は見られる。でも、両方を施設に入れるなんてできないよ」
彼女の父親は、私の父と同じ会社に勤めていた人だった。
しかも、事実上、その会社のナンバー5と呼ばれるような立場にいた人だ。
それでも――
自分や家族の介護を、家族だけで支え続けることはできない。
私は、この言葉が忘れられなかった。
|高度経済成長を支えた世代に、何が起きているのか
私の父や幼馴染の父親は、戦争を経験した世代だ。
東京大空襲があり、地方へ疎開した。
上野には戦争孤児がいて、闇市が開かれていた。
床には、飢えで倒れた子どもがいた。
それが、たとえ遺体だったとしても、生きるために避けて歩かなければならなかった時代だったという。
幸い、父の神田の実家は火災を免れた。
父は、米兵に、
「ギブ・ミー・チョコレート」
と言って、本当にチョコレートをもらったことがあると話していた。
彼らの初任給は、3万円だったという。
現在の貨幣価値に換算した場合の正確な比較は、ここではできない。
それでも、彼らは必死に働いた。
そして、日本の高度経済成長を走り抜けた。
私の父の世代は、そうやって日本をつくってきた。
だから私は思う。
「利根川一家心中事件」で亡くなったご両親も、おそらく同じように、その時代を懸命に生きてきた人だったのではないか、と。
彼らの世代が築いた社会の上に、私たちの現在がある。
|そして、次に高齢者になるのは「就職氷河期世代」
ここから先は、さらに深刻だ。
私の父の世代には、正社員として一つの企業に長く勤める人が多かった。
長く勤めれば、厚生年金の加入期間も積み上がる。
一方、就職氷河期世代には、非正規雇用、転職、失業、介護離職など、キャリアが中断される経験をした人もいる。
もちろん、氷河期世代すべての人の年金が少ないわけではない。
しかし、雇用形態や加入歴、所得などによって将来の年金額が変わる以上、現役時代のキャリアが不安定だった人ほど、老後の所得形成にも影響が及ぶ可能性がある。
そして、その世代が高齢期に入ったとき――
「自分の老後」と「親の介護」だけではなく、すでに自分自身のキャリアを失っている人が介護を担う可能性もある。
これは、これまでとは違う種類の介護問題になる。
|「介護離職」は、数字になっている
総務省の2022年「就業構造基本調査」によると、介護・看護を理由として過去1年間に前職を離職した人は10.6万人。
そのうち、
離職後に無業となった人は8.3万人。
離職後も仕事をしている人は2.3万人だった。
また、10.6万人のうち女性は8.0万人で、約4分の3を占めている。
数字にすると、こうなる。
介護・看護を理由とする離職
| 項目 | 2022年 |
|---|---|
| 過去1年間の介護・看護離職者 | 10.6万人 |
| そのうち離職後「無業」 | 8.3万人 |
| 離職後も「有業」 | 2.3万人 |
| 女性 | 8.0万人 |
| 男性 | 2.6万人 |
※総務省「令和4年就業構造基本調査」。数値は全国。
さらに、現在の統計を見ても、問題は「仕事を辞めた人」だけではない。
|「働きたい。でも、介護がある」
2025年平均の労働力調査では、非労働力人口のうち就業希望者は212万人。
そのうち、
「介護・看護のため」
を理由に求職活動をしていない人は、
14万人。
前年と同じ人数だった。
つまり、
介護のために仕事を辞めた人
だけではない。
その後、
「働きたいのに、介護があるから仕事を探すことすらできない人」
もいる。
この二つは統計上、別の概念なので、単純に足し算して「24.6万人」とすることはできない。
しかし、
介護が、人の「働く」という選択そのものを奪うことがある。
この事実は、見過ごせない。
|介護だけではない――日本社会に積み重なる「生きづらさ」
2025年平均の統計を見ると、非正規の職員・従業員は2,128万人。
そのうち、
「正規の職員・従業員の仕事がないから」
という理由で非正規雇用を選んでいる人は173万人。
また、
「家事・育児・介護等と両立しやすいから」
という理由で非正規を選んでいる人は226万人だった。
完全失業者は176万人。
非労働力人口は3,962万人だった。
さらに、内閣府が紹介している資料では、ひきこもり状態にある人は約146万人とされている。
これらは、それぞれ異なる統計であり、単純に合計して「日本にはこれだけの人が困っている」とすることはできない。
それでも、私には一つの大きな構造が見えてくる。
「働けない」のではなく、「働き続けられない」。
「働きたくない」のではなく、「働くことを選べない」。
「社会から離れたい」のではなく、「社会との接点を失ってしまう」。
介護は、そのきっかけの一つになり得る。
|介護の問題は、介護だけでは終わらない
低年金。
単身高齢者。
生活保護。
ヤングケアラー。
8050問題。
女性の就業中断。
社会保険の壁。
老老介護。
介護施設不足。
介護職不足。
介護離職。
非正規雇用。
これらは、一つひとつ別々の問題に見える。
でも、家族の中ではつながっている。
親の認知症。
↓
介護が必要になる。
↓
家族が介護を担う。
↓
仕事と両立できなくなる。
↓
離職する。
↓
収入が減る。
↓
将来の年金も減る可能性がある。
↓
貯蓄が減る。
↓
親の介護費用が重くなる。
↓
自分自身の老後資金を準備できなくなる。
↓
そして、自分が高齢者になったとき、自分自身が介護を必要とする。
これは、負の連鎖になり得る。
そして、その負担を最後に引き受けているのは、誰なのだろう。
「この国に政治屋はいても、政治家はいない」
ある人が、
「この国に政治屋はいても、政治家はいない」
と言った。
私は、その言葉が強烈に引っかかった。
帰国してしばらくの間、私は会う人、会う人に、
「なぜ、このような社会になってしまったのだろう?」
という疑問を投げかけた。
そして、とても興味深かったのが、
医療現場から聞こえてきた声だった。
|医師から聞いた「医療現場の本音」
母の神経内科、認知症やアルツハイマーなどを診る主治医が、派遣元の病院へ戻ることになった。
それまでのお礼を伝える挨拶の中で、私は初めて、彼の「本音と現状」を聞いたような気がした。
彼は、私よりはるかに若い医師だった。
私が両親の介護のために、日本や海外で積み上げてきたキャリアを止めることになったことも知っていた。
そして、私自身が25歳で癌になり、キャンサーサバイバーとして社会復帰までの壮絶な闘病生活を経験してきたことも理解していた。
彼はしばらく下を向いていた。
もちろん、私に謝罪する必要などない。
それでも彼は、本当に申し訳なさそうに、社会の理不尽さについて話してくれた。
「医療現場の誰もが疑問に思っているはずです。医師同士でも話題になります」
そして、外国人の生活保護や社会保障についての疑問を口にした。
さらに、病院に来る患者の服装や生活状況を例に挙げながら、
「なぜ、日本人で本当に困っている人が受けられないように感じる状況があるのか」
という趣旨の話をした。
私は、瞬きをすることなく、顔色や表情を変えることなく、話が終わるまで医師の顔を見ていた。
ただし、ここは非常に重要なところなので書いておきたい。
これは、あくまで私が一人の医師から聞いた現場の発言であり、日本全体の医療現場の総意を示すものではない。
また、患者の外見や持ち物だけから、その人の資産状況や生活保護の適否を判断することもできない。
私はこの会話を通して、「貧困」「社会保障」「外国人政策」「医療」「介護」が、社会の中でどれほど複雑に絡み合っているのかを考えるようになった。
|外国人の生活保護――制度上、何が起きているのか
外国人の生活保護については、しばしば誤解が生じる。
厚生労働省によれば、生活保護法そのものは外国人を適用対象としていない。
一方、1954年の厚生省通知に基づき、一定の外国人については、日本人に対する生活保護に準じた行政措置が行われている。これは法律上の権利としての生活保護とは位置づけが異なる。
また、厚生労働省が公表した資料によれば、世帯主が日本国籍を有しない生活保護受給世帯は、2024年度平均で4万7,332世帯、そこに属する被保護人員は6万4,993人。
生活保護受給世帯全体に占める割合を機械的に算出すると、世帯ベースで約2.9%だった。
つまり、
「外国人が生活保護を優先的に受けている」
という単純な説明では、制度の実態を正確に表せない。
一方で、外国人の社会保障制度への加入・保険料負担・未納問題について、行政がどのように把握し、どのように対応するのかという論点が存在することも事実だ。
|「国保未納4,000億円」という数字は、どう見るべきなのか
2025年5月19日の参議院予算委員会では、日本維新の会の柳ヶ瀬裕文議員が、外国人の国民健康保険料の未納問題を取り上げた。参議院の質疑項目にも、外国人の土地取得と国民健康保険料の未納への対応が記録されている。
その際に示されたのが、
「年間4,000億円以上」
という推計だった。
ただし、ここは数字だけが独り歩きしないように注意したい。
この4,000億円は、全国の自治体から集計された「外国人による国保未納の確定額」ではない。
報道・ファクトチェックによれば、自治体の一部データをもとに、一定の仮定を置いて全国に当てはめた推計として示された数字であり、全国の実測値とは異なる。
だから私は、
「外国人が年間4,000億円を未納している」
と断定するのではなく、
「国会で、一定の仮定に基づく4,000億円超という推計が示され、その推計方法や数字の扱いについて議論が起きた」
と理解するのが適切だと思っている。
数字は、強烈であればあるほど、正確に扱わなければならない。
|問題は「誰が得をしているか」だけではない
私は、外国人と日本人を対立させたいわけではない。
そうではなく、
社会保障制度を、誰が、どのような条件で利用し、誰が負担し、行政がそれをどこまで正確に把握しているのか。
そこを透明にしてほしいのだ。
日本人でも外国人でも、困窮している人がいる。
支援が必要な人がいる。
一方で、制度を維持するためには、保険料を負担する人、税金を納める人、そして制度を管理する行政が必要になる。
だからこそ、
「日本人か外国人か」だけで議論を終わらせてはいけない。
必要なのは、
- 誰が制度の対象なのか
- 誰が保険料を払っているのか
- 未納はどの程度あるのか
- 自治体はどう対応しているのか
- 生活保護はどのような制度として運用されているのか
- 医療・介護・年金を誰がどのように支えるのか
という、具体的なデータと制度設計の議論だと思う。
|私たちは、すでに「利根川一家心中事件」の対岸にいるわけではない
「スノードロップ」を知ったとき、私は最初、
「なんて悲しい事件なのだろう」
と思った。
でも、親の介護が始まった今は、以前とは違う。
私は、この事件を「遠い誰かの悲劇」として見ることができなくなった。
年金が少ない家庭だけの問題ではない。
貯金がない家庭だけの問題でもない。
大企業に勤めていた家庭でも起こり得る。
親がある程度の年金を受け取っていても起こり得る。
子どもが大卒でも。
上場企業に勤めていても。
長年キャリアを積んでいても。
介護によって仕事を失えば、生活は一気に変わる。
私の幼馴染もそうだった。
それでも親の介護が始まると、フルタイムの仕事を離れざるを得なくなった。
昼間は介護。
お父さんが眠ったあと、夜に仕事をする。
それほどまでに追い詰められていた。
そして私の周囲を見渡すと、親が認知症になったり、同居する祖父母の介護を担ったりしたことで、40代で離職した友人や知人がいた。
離職後は、細々とパートや短期派遣をしながら社会との接点を保っている。
彼らの多くは大卒だった。
上場企業や有名企業に長年勤めていた人もいる。
それなのに。
介護が始まった瞬間、
「非正規雇用」
というカテゴリーに入り、
「無業」
という統計に入り、
場合によっては、
「社会との接点を失った人」
として見られる。
私は、それが悔しかった。
努力して。
頑張って。
キャリアを積んで。
それでも家族を守るために、それらを手放さなければならない。
それが、今の日本社会で起きていることなのだ。
|そして、学生ローンを抱えながら親を介護する世代へ
私の世代が学生だった頃は、今ほど多くの学生が大きな奨学金返済を抱えているという感覚はなかった。
しかし、これから先は違う。
自分自身の奨学金返済。
住宅費。
子育て。
不安定な雇用。
そして親の介護。
それらが同時にやってくる人もいるだろう。
もし、親の介護のために仕事を辞めれば、収入だけではなく、その後のキャリア形成や年金にも影響する可能性がある。
そして、自分が高齢者になったとき、
「自分の介護を、誰が支えるのか」
という問題が戻ってくる。
これは、誰か一人の努力で解決できる問題ではない。
|介護を「家族愛」で片づけてはいけない
私は、家族を大切にすることを否定したいわけではない。
むしろ逆だ。
家族だからこそ、できることはしたい。
親に恩返しをしたい。
できるだけ一緒にいたい。
でも、
「家族なのだから、家族が介護すればいい」
という考えだけでは、限界がある。
介護には、専門知識が必要だ。
お金も必要だ。
時間も必要だ。
医療との連携も必要だ。
福祉制度の知識も必要だ。
そして何より、
介護する人自身の人生を守る仕組みが必要だ。
介護する人が倒れてしまえば、介護される人も困る。
介護する人が仕事を失えば、家族全体の経済基盤が崩れる。
介護する人が孤立すれば、問題はさらに深くなる。
だから私は、
「介護者も支援されるべき存在である」
という考え方が、もっと当たり前になってほしいと思っている。
私が「Quality of Life」を考える理由
介護が始まってから、私は「Quality of Life」という言葉の意味を以前とは違う角度から考えるようになった。
Quality of Lifeは、単に、
「毎日楽しく暮らす」
という意味ではない。
人生が思い通りにならないとき、
それでも、自分の人生をどう生きるのか。
私は、そこにQuality of Lifeの本質があると思っている。
そして、私自身の哲学である、
Discover.
まず、現実を知る。
介護。
認知症。
年金。
社会保障。
雇用。
介護離職。
制度。
知らなければ、備えることもできない。
Savor.
そして、今ある時間を味わう。
親と食事をする。
一緒にテレビを見る。
くだらないことで笑う。
今日、親が自分の足で歩けたことを喜ぶ。
介護の中にも、「人生」はある。
Live with Grace.
そして最後に、
どんな状況でも、自分自身の尊厳を失わずに生きる。
親にも尊厳がある。
介護される人にも尊厳がある。
そして、
介護する人にも、尊厳がある。
介護のために、自分の人生をすべて犠牲にしなければならない社会が、本当にQuality of Lifeの高い社会なのだろうか。
私は、そうは思わない。
|「スノードロップ」は、私たちへの問いなのかもしれない
映画を見た人。
事件を知っている人。
知らない人。
介護をしている人。
まだ介護を経験していない人。
親が元気な人。
親を亡くした人。
子どもがいる人。
子どもがいない人。
どんな人にも、この問題は無関係ではない。
なぜなら、
人は、いつか老いるからだ。
そして、
誰かの介護をする可能性があるからだ。
自分自身が介護される側になる可能性もある。
だから、介護は「高齢者の問題」ではない。
人生の問題なのだ。
私は帰国してから、親の介護を通して、日本という国を以前とは違う目で見るようになった。
そして今、思う。
「利根川一家心中事件」は、遠い昔の悲劇ではない。
「スノードロップ」は、誰か別の家族の物語ではない。
もしかしたら――
明日の私たちの物語になるかもしれない。
だからこそ、私たちは目を背けてはいけない。
介護を家族だけに背負わせない社会とは何なのか。
働きながら親を支えられる社会とは何なのか。
高齢になっても安心して暮らせる社会とは何なのか。
そして、
介護する人も、介護される人も、自分の人生を生きられる社会とは何なのか。
その答えを、私たちはこれから考えていかなければならない。
それは政治家だけの仕事でもない。
行政だけの仕事でもない。
医療や福祉の専門家だけの仕事でもない。
いつか親を介護するかもしれない私たち、一人ひとりの問題でもある。
そして私は、これからも自分自身の介護体験を通して、
この国の「介護の現実」を見つめていきたい。
家族の愛だけでは、社会は支えられない。
だからこそ、
人が人らしく生きられる仕組みを、もう一度考えたい。
それが、私にとってのQuality of Lifeなのだから。
