|「幸せな人生でしたか?」
もし誰かに、
「人生で一番幸運だったことは何ですか?」
そう聞かれたら、私は迷わず二つ答える。
一つ目は、両親がいて、二人が最後まで深く愛し合っていたこと。
そしてもう一つは、父が健康なまま定年を迎えられたこと。
この二つが、間違いなく私の人生の土台になっている。
人は幸せを失ってから、その大きさに気づく。
だから私は今でも、この二つを人生最大の財産だと思っている。
|母が教えてくれた「家族」というもの
母が42歳で肺がんになったとき、私は14歳だった。
母は、自分がいなくなった後のことを考え始めていた。
料理の作り方。
ゴミの出し方。
お茶の作法。
言葉遣い。
「母親がいないから」と周囲に言われ、不自由な思いを私にさせたくなかったのだろう。
しかし、当時の私には、それ以上に忘れられない出来事があった。
それは、生涯忘れることのない「家族」の本質を教えてくれた出来事だった。
母が手術と治療のため入院していた頃、同じ病室に、とても仲の良さそうな夫婦がいた。
毎日欠かさず病院へ来る夫。
肩を抱き、優しく手を添える姿は、誰もが羨む理想の夫婦に見えた。
だが、一人娘だけは、一度も病院へ姿を見せなかった。
それがずっと気になっていた。
ある日、その夫婦を見る母の表情が一変した。
穏やかだった母が、怒りにも似た眼差しで二人を見つめていた。
私の視線に気づいた母は静かに話し始めた。
その家庭では、奥さんが入院している間に、すでに別の女性が家に住んでいたという。
家庭は崩壊し、娘は家を出ていった。
病室で見せていた幸せそうな姿は、すべて表向きだった。
亡くなる直前、その女性は母に悔しさを打ち明けていた。
私はその時、家族とは「壊れないもの」ではないことを知った。
積み上げた信頼は、一瞬で崩れることもある。
|父が守ってくれたもの
私の父は違った。
女性問題もなければ、お金のトラブルもなかった。
派手な人生ではない。
だが、その「当たり前」を守り続けてくれた。
母が病気になっても。
私が闘病生活を送っても。
私たちは安心して病院へ向かうことができた。
治療だけに集中できた。
家へ帰れば、父がいる。
その安心感は、病気の薬以上の支えだった。
一家の大黒柱とは、お金を稼ぐ人ではない。
家族が安心して生きられる場所を守る人なのだ。
私は父の背中から、それを学んだ。
|父が倒れた日
母の病気から約20年。
今度は父だった。
「ちょっと風邪をひいたみたいだ。」
そう言っていた父は、現役時代なら39度の熱でも仕事へ行くような仕事人間だった。
しかし定年を迎え、70歳を目前にした父は、以前とは明らかに違っていた。
二日後。
ベッドから起き上がれなくなった。
目の焦点が合わない。
その瞬間、嫌な予感がした。
私は迷わず救急車を呼んだ。
その夜。
父はICU(集中治療室)で危篤状態となった。
「ここ二日間が峠です。」
医師の言葉が、静かに胸へ突き刺さった。
|ICUで見た父
父は全身に無数の管をつけられ、激しく痙攣していた。
長い闘病生活を経験してきた私でも、初めて見る光景だった。
「何が起きているのですか。」
看護師へ尋ねると、
「髄膜炎の菌と必死に戦っています。」
そう教えてくれた。
全身が波打つ父の姿は、子どもの頃に観た映画『エクソシスト』を思い出すほど衝撃的だった。
ただ立ち尽くし、私はその姿を見続けるしかなかった。
|私の知らない父
一週間後。
奇跡的に父は意識を取り戻した。
だが、そこにいたのは私の知る父ではなかった。
点滴を抜き、看護師へ怒鳴っていた。
私は慌てて謝罪した。
しかし看護師は優しく微笑み、
「脳が混乱しています。しばらく続きますが、落ち着いてきます。」
そう説明してくれた。
私は父に聞いた。
「今、どこにいるかわかる?」
父は満面の笑みで答えた。
「後楽園で野球を見てるんだ。」
胸が締めつけられた。
父はそこにはいなかった。
|それでも人は前へ進む
数週間後、父はリハビリ病院へ転院した。
半年ほどかけて、少しずつ記憶も戻り、本来の父へ近づいていった。
左足には後遺症が残った。
歩くには杖が必要になった。
それでも父は毎日散歩へ出かけた。
「歩かなきゃな。」
その一言だけを残して。
父らしかった。
|父が隠していたもの
翌年、私はアメリカへ渡った。
父はいつも言っていた。
「家のことは心配するな。自分の人生を生きなさい。」
ところが、ある時から言葉が変わった。
「お父さんも、いつまでも元気じゃない。その時のことは考えておきなさい。」
一時帰国して、その理由を知る。
父は前立腺がんだった。
すでに放射線治療まで終えていた。
私は何年も、その事実を知らなかった。
心配をかけたくなかったのだろう。
父らしい優しさだった。
気づけば、我が家は父も母も私も、全員が「がん患者」になっていた。
|そして介護は静かに始まった
コロナ禍を経て、私は日本へ完全帰国した。
2026年現在、前立腺がんの告知から7年。父は3か月ごとのホルモン治療を受けながら、今も生きている。
家族全員ががんを経験した。
それでも全員、生きている。
人生はここから、大きくステージを変えていく。
父が弱くなった日。
それは介護が始まった日でもあった。
その物語は、次のChapter14で綴りたい。
Quality of Life 哲学
「Quality of Life」が教えてくれた3つのこと
1. 本当の幸せは、失ってからではなく、今あることに気づくこと。
健康も、家族も、平凡な毎日も、人生最大の財産である。
2. 家族とは、安心して帰れる場所を守ること。
信頼は築くのに何十年もかかるが、壊れるのは一瞬である。
3. 介護は突然始まる。
その日が来る前に、大切な人との時間を大切にしてほしい。
