私はその日、生まれて初めて、帰ってきたはずの家に入れなかった。
二年ぶりの帰国だった。
玄関のドアを開けた母は、私の顔を見つめながら、こう言った。
「どちらさまですか?」
その瞬間、私の人生は静かに、しかし確実に変わり始めた。
|介護は病院ではなく、玄関から始まった
2022年の春。
私はアメリカでの生活に区切りをつけ、日本へ完全帰国した。
当時はまだコロナ禍の真っ只中だった。日本へ入国するにはワクチン接種証明が必要で、到着後には空港でのコロナ検査も義務付けられていた。
空港は人であふれ返り、到着してから外へ出るまでに四時間以上かかった。
その日は空港近くのホテルに宿泊し、翌日になってようやく実家へ向かった。
ニューヨークから東京まで約十一時間。
そこへ空港での待機時間や移動時間が加わる。
これまで何度も往復してきた日本だったが、この時ほど遠く感じたことはなかった。
しかも私はコロナの後遺症を抱え、数週間前には左足首を骨折していた。
二年ぶりに我が家へたどり着いた時には、
「生きて帰ってこられた」
そんな安堵の気持ちでいっぱいだった。
しかし、その安堵は玄関先で一瞬にして消え去った。
出迎えた母が、私に向かって言った。
「どちらさまですか?」
最初は冗談だと思った。
「何言ってるの?」
そう笑って返したが、母は真顔だった。
私は改めて尋ねた。
「私が誰かわかる?」
母は少し考えた後、静かに答えた。
「存じません」
実の娘に向かって。
私は言葉を失った。
家に入れてもらえず、慌てて父に電話をかけた。
玄関まで出てきた父も驚いていた。
「本当に寛奈がわからないのか?」
父の問いかけにも、母は首を傾げるばかりだった。
今思えば、この日が親子関係から介護者と被介護者という新しい関係へ変わった日だったのかもしれない。
|二年という歳月が奪ったもの
私は毎年一度は日本へ帰国していた。
しかし滞在期間は限られていた。
友人との再会、仕事関係の用事、定期検診。
気づけば予定は埋まり、家族とゆっくり向き合う時間はほとんどなかった。
せいぜい帰国初日に、母が私の好物を作ってくれた時に一緒に食事をする程度だった。
それでも互いに元気なら、それで十分だと思っていた。
だが現実は違った。
この十年で私も歳を重ねた。
しかし、両親の老いは私の想像をはるかに超えていた。
浴室の天井には黒カビが広がっていた。
二階の部屋は湿気だらけだった。
障子は破れ、網戸には穴が空いている。
庭には雑草が生い茂り、家全体がまるで長年放置された建物のように見えた。
コロナ禍になる前までは、両親は換気も掃除も欠かさなかった。
それが二年間で完全に止まってしまっていた。
二階の窓は、いつから開いていないのかわからないほど固く閉ざされていた。
私は家の変化以上に、両親自身の変化に強い不安を覚えた。
|母は本当に認知症ではないのか
父は繰り返し言った。
「お母さんは認知症じゃない」
だが、数日一緒に過ごしただけで、私は違和感を覚えた。
会話の内容。
行動の変化。
身体機能の衰え。
どれを取っても以前の母とは違っていた。
ある日、私は母にオムライスを作ってほしいと頼んだ。
母のオムライスは昔から私の大好物だった。
食卓に運ばれてきた皿を見ると、確かにオムライスだった。
だが、一口食べる前から違和感があった。
ケチャップの香りがしない。
恐る恐るスプーンを入れると、中に入っていたのはケチャップライスではなくガーリックライスだった。
私は何も言えなかった。
母自身も間違いに気づいていないようだった。
また別の日には、何も入っていない鍋に火をつけていた。
それも一度ではなかった。
火をつけたままトイレへ行こうとする姿も目撃した。
私は背筋が凍った。
もし私がその場にいなかったら。
もし火事になっていたら。
そう考えるだけで恐ろしくなった。
その日以降、母が一人でコンロを使うことは禁止した。
さらに衝撃的だった出来事もある。
入浴後、身体を拭かないまま裸で応接間へ入ってきたのだ。
父も私も目を見開いたまま、その場に立ち尽くした。
そして極めつけは、母が語った過去の出来事だった。
母によると、昔、人身事故で停車した電車から乗客全員が線路へ降り、ホームの下にある避難スペースへ入って電車が通過するのを待ったことがあるという。
私はその話をよく覚えていた。
私が小学一年生の時だった。
確かに母と乗っていた電車で人身事故は起きた。
だが実際には次の駅で別の車両へ乗り換えただけだった。
線路に降りてもいない。
ホーム下の穴へ避難した事実もない。
完全に記憶が作り変えられていた。
私が何度説明しても、母は譲らなかった。
それまで穏やかだった母とは別人のようだった。
私も父も、その姿に愕然とした。
そして私は決断した。
まずは専門医に診てもらおう。
母を近所の総合病院へ連れて行き、神経内科の「もの忘れ外来」を受診することにした。
|もの忘れ外来で突きつけられた現実
母には62歳の時にクモ膜下出血を患った既往歴があった。
そのため、まずは脳の状態を確認する必要があった。
病院ではCT検査を受け、その後、医師との対面による簡単な認知機能テストが行われた。
私はその様子を隣で見守っていた。
質問に対する母の答えは、正直なところ危うかった。
わからないはずの問題に適当に答え、それが偶然正解する場面も少なくなかった。
医師は慎重な表情で言った。
「現時点では、まだ認知症と断定できる段階ではありません」
私は少しだけ安堵した。
しかし、その後に続いた言葉が胸に残った。
「ただし、限りなく黒に近いグレーです」
やはりそうだったのだ。
私が感じていた違和感は気のせいではなかった。
さらに医師は、母の既往歴についても説明してくれた。
一般的に65歳までに脳の病気で手術を受けた人は、認知症を発症するリスクが高くなる傾向があるという。
もちろん個人差はある。
進行速度も人それぞれだ。
だが、場合によっては三年後には娘である私の顔や名前を忘れてしまう可能性もある。
そう告げられた。
私はしばらく言葉が出なかった。
だが、未来を悲観しても何も変わらない。
三年後のことは、その時になってみなければわからない。
私が考えるべきことは別にあった。
今、何ができるのか。
そして、何ができなくなっているのか。
それを正しく見極めることだった。
この頃の母はまだ自分でトイレに行けた。
お風呂にも入れた。
洋服も自分で選び、着替えることができた。
できないことばかりに目を向けるのではなく、できることを守る。
私はそう決めた。
介護とは、すべてを奪うことではない。
その人らしさを残すことなのだと、この時初めて気づいた。
|「三年後には娘も忘れるかもしれない」
病院からの帰り道。
私は何度も医師の言葉を思い返していた。
三年後。
その言葉だけが頭の中で繰り返される。
もし本当に私のことを忘れてしまったら。
もし母との思い出がすべて消えてしまったら。
そんなことを考えれば考えるほど苦しくなった。
しかし、ふと隣を見ると母は穏やかな表情で窓の外を眺めていた。
本人は何も変わっていない。
不安なのは私だけだった。
未来を恐れて今日を失うのは違う。
そう思った。
認知症になったから終わりではない。
今この瞬間をどう生きるか。
それが大切なのだと、自分に言い聞かせた。
|そして見つかったもう一つの病気
しかし、この時の私は認知症以上に心配していたことがあった。
母の腎臓だった。
コロナ禍の影響で、必要な検査が長期間中断されていたのである。
体調不良で病院の予約をキャンセルしていたこともあった。
感染を恐れ、病院から足が遠のいていたことも大きかった。
以前から血尿や血便が出ていた。
私は最悪の可能性も覚悟していた。
そして、その予感は残念ながら的中した。
大学病院での検査結果は腎盂(じんう)がんだった。
診断結果を聞いた時、私は驚かなかった。
むしろ、やはりそうだったかという思いの方が強かった。
問題はこれからだった。
手術を受けるのか。
受けないのか。
年齢を考えれば簡単な決断ではない。
だが母は82歳になっても自分の足で歩いていた。
食事もできた。
会話もできた。
体力も残っていた。
だからこそ私たちは決断した。
体力がある今のうちに手術を受けようと。
幸いにもコロナ禍の影響で病棟への面会は禁止されていた。
家族としては複雑な気持ちだったが、介護の負担という意味では救われた部分もあった。
入院の日。
退院の日。
そして手術の日。
付き添いが必要なのは限られた日だけだった。
だが、手術当日の朝だけは特別だった。
手術室へ向かう前の数分間だけ面会が許されたのである。
私は母の後ろ姿を見送った。
ゆっくりと歩くその背中を見つめながら、これまでの人生が走馬灯のようによみがえってきた。
母はこれまでも何度も病と闘ってきた。
そして、そのたびに生きて戻ってきた。
だから今回もきっと帰ってくる。
私はそう信じた。
しかし同時に、もしこれが最後になったらという不安も消えなかった。
人生とは不思議なものだ。
幼い頃は親に守られていた。
だが気づけば、今度は自分が親を守る側になっていた。
そして私は、この時ようやく理解した。
介護とは特別な誰かがするものではない。
親を愛してきた子どもが、いつか通るかもしれない人生の道なのだ。
その道の入り口に、私は立っていた。
|母は何度も死線を越えてきた
手術室へ向かう母の背中を見送りながら、私はこれまでの出来事を思い返していた。
母の人生は、決して平坦なものではなかった。
何度も病と向き合い、そのたびに生きることを選び続けてきた。
私は、そのすべてを見てきた。
|42歳、肺がんとの闘い
母が42歳の時だった。
私はまだ中学生だった。
母は肺がんの手術を受けた。
背中を約40センチ切開し、肋骨を二本切除し、肺の一部を摘出する大手術だった。
術後しばらくは、身体につながれたドレーンから血液が流れ続けていた。
あまりの痛みに、母はよく涙を流していた。
当時の私は病気の怖さを十分に理解していなかった。
それでも、いつも強かった母が涙を流す姿だけは忘れられなかった。
あの時、母は生きるために闘っていた。
そして勝ち抜いた。
|62歳、クモ膜下出血からの生還
次に母を襲ったのは、62歳の時だった。
夜九時頃だったと思う。
突然、家中に響き渡るようないびきが聞こえた。
あまりにも異様な音だった。
私は驚いて両親の寝室へ駆け込んだ。
母を起こすと、
「泥棒に頭をつかまれる夢を見た」
と話した。
私は安心し、
「大丈夫だから、もう寝なよ」
そう言って部屋を後にした。
しかし翌朝、まだ夜も明けきらない時間だった。
父が慌てた様子で私を起こした。
「救急車を呼んでくれ」
母はまだ意識があった。
だが、首から頭にかけて激しい痛みがあり、起き上がれないという。
そして自ら言った。
「くも膜下出血だと思う」
そこから命のリレーが始まった。
救急車は大学病院へ向かった。
病院へ到着するまで母の意識は保たれていたという。
そして診察した医師に対しても、
「私はくも膜下出血だと思います」
とはっきり伝えたらしい。
検査結果は、母の予想通りだった。
父から電話が入った。
「すぐ病院へ来なさい」
私は職場へ連絡を入れ、急いで病院へ向かった。
一時間ほどの道のりが永遠のように長く感じた。
主治医となった医師は四十代前半くらいに見えた。
医師の説明は衝撃的だった。
通常、くも膜下出血は脳の左右どちらかの血管が破裂することが多い。
しかし母の場合は違った。
脳のど真ん中だった。
その場所は極めて危険で、すぐに手術できる状態ではないという。
今、無理に手術をすれば即死する可能性が高い。
だから動かすこともできない。
人工呼吸器で生命を維持しながら経過を見るしかない。
そして医師は静かに言った。
「二週間後まで生きていられたら手術をします」
「それまでに亡くなってしまったら……申し訳ありません」
私は愕然とした。
しかし、ただ待つことはできなかった。
その場でセカンドオピニオンを申し出た。
結果は同じだった。
どの専門医も同じ見解だった。
私は覚悟を決めた。
母の主治医を信じよう。
すべてを託そうと。
|12時間の大手術
それから二週間後の明け方だった。
午前五時前。
主治医から電話が入った。
「手術室が空きました。これから手術します」
私はすぐに病院へ向かった。
手術は十二時間にも及んだ。
夕方になり、ようやく主治医から説明を受けることになった。
その時、私は忘れられない光景を目にした。
説明室へ向かう廊下の先に、主治医の後ろ姿が見えた。
両手を腰に当て、空を見上げている。
そして、大きく息を吐いた。
私はその瞬間、なぜか確信した。
手術は成功した。
実際、その直感は当たっていた。
術後の母の頭は大きく腫れ上がり、包帯でぐるぐる巻きになっていた。
まるでドラえもんのようだった。
主治医は言った。
「年間二百件以上の手術をしていますが、お母さんのケースはこれで七例目です」
そして続けた。
「過去六人の患者さんは、全員自分の足で退院しました」
私はその言葉を今でも忘れない。
主治医の言葉通り、七例目となった母も歩行器を使いながら、自分の足で退院した。
その後リハビリを重ね、歩行器も必要なくなった。
母は63歳から82歳まで、不自由なく人生を歩き続けた。
そして再び、82歳で腎盂がんと向き合うことになったのである。
|82歳、腎盂がん手術
退院の日。
私は病院へ迎えに行った。
母は以前より歩く速度こそ遅くなっていたが、自分の足で病棟を出てきた。
その姿を見た時、私は胸が熱くなった。
肺がん。
クモ膜下出血。
そして腎盂がん。
母の身体には、そのすべてと闘った証が残っている。
背中には大きな手術痕。
頭には開頭手術の痕跡。
そしてお腹には新たな傷。
だが私は思う。
それは傷ではない。
生き抜いてきた証だ。
人生の勲章だ。
|「まだ死なないのよ。私、しぶといの」
私は時々、母に聞く。
「いつまで生きるの?」
すると母は笑う。
「まだ死なないのよ」
少し間を置いて、こう続ける。
「私、しぶといの」
その笑顔を見るたびに思う。
母は病気に勝ってきたのではない。
病気と共に生きてきたのだ。
それが彼女の強さなのだろう。
Quality of Life|人生を支えるのは「延命」ではなく「尊厳」だった
あれから三年。
認知症は容赦なく進行した。
できないことも増えた。
介護の負担も決して軽くはない。
これまで延命治療についても何度も考えてきた。
もし九十歳を超え、寝たきりになった時。
家族として大きな決断を迫られる日が来るかもしれない。
それでも今の私ははっきりと言える。
トイレに行ける。
お風呂に入れる。
好きなものを食べられる。
笑うことができる。
そのすべてが生きる力そのものだ。
Quality of Lifeとは、ただ長く生きることではない。
自分らしく生きること。
尊厳を持って生きること。
そして、大切な人に愛されながら生きることだ。
私には母の笑顔を奪うことはできない。
だから私は決めた。
できることは母自身にしてもらう。
できないことは私が支える。
そして、その責任は娘である私が背負う。
それが介護の第一歩だった。
あの日、玄関で母は私に言った。
「どちらさまですか?」
介護は、その一言から始まった。
そして私は今も母に伝え続けている。
「私は娘だよ」
何度でも。
何百回でも。
たとえ母が忘れてしまっても。
私は忘れない。
母が私の母であることを。
