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生きて帰りたい。―コロナ禍のニューヨークで、夢より命を選んだ日―

「生きて日本へ帰りたい」——それが、あの頃の私の願いだった

世界中がCOVID-19という未知のウイルスに翻弄されていた頃。

私はニューヨークで卒業と就職活動という人生の大きな岐路に立っていた。

将来への期待に胸を膨らませていたはずなのに、世界は突然止まり、未来への扉は次々と閉ざされていく。

それでも私は前へ進もうとした。

しかし最後に選んだのは、夢ではなく「生きること」だった。


目次

|コロナ禍のニューヨークで直面した就職危機

アメリカ生活の中で、一番大変だったのは就職活動だった。
COVID-19の影響でニューヨーク州はロックダウン。

求人そのものが激減したことに加え、行政機関や企業、学校までもが一時的に機能停止に近い状態となった。

自宅待機命令が発令され、多くの組織がオンライン業務へ移行するまでの間、社会全体が混乱していたのである。

留学生にとって時間は限られている。

ビザや就労許可には厳格な期限があり、一つの遅れが将来を左右することも珍しくない。


|夢を断たれた留学生たち

大学や大学院を卒業した留学生は、OPT(Optional Practical Training)という制度を利用し、専攻分野に関連した職種でアメリカ企業に就職することができる。

しかし、そのためには移民局への申請が必要だ。

私の一つ前のセメスターで卒業した留学生たちは、OPT申請どころか、さまざまな手続きが停止するという事態に直面した。

ビザは進まない。

就職イベントは中止。

卒業式もキャンセル。

将来への道筋を失い、多くの留学生が失意の中、それぞれの母国へ帰国していった。

誰のせいでもない。

だからこそ、その現実はあまりにも残酷だった。


|卒業そのものが危うくなった最後のセメスター

私のビジネス学位プログラムでは、卒業前にインターンシップへの参加が必須だった。

当初は、たとえアメリカ企業への就職が叶わなくても、少しでも現地で働いた経験を積みたいと思っていた。

ところが、コロナ禍はその卒業要件さえ脅かした。

私が所属していたプログラムには、在学中に企業で就業体験を行うCPT(Curricular Practical Training)が組み込まれていた。

しかし、学校がインターン先を紹介してくれるわけではない。

自ら企業を探し、採用されなければならなかった。

職歴のない学生の中には、卒業時期をあえて遅らせる人もいた。

だが留学生にはビザの期限がある。

滞在が長引けば、学費や生活費も増えていく。

すでに社会人経験を持つ留学生ほど、その厳しさを理解していた。

私もまた、その一人だった。


|アメリカ企業への夢より、確実な選択を優先した

本心ではアメリカ企業に挑戦したかった。前回は、日系企業だったからだ。

しかし私は、日系企業への応募へと方向転換した。

世の中が緊急事態であっても、移民局や大学の手続き期限は待ってくれない。

書類選考。

面接結果。

採用通知。

書類の再提出。

もしどこかで手続きが滞れば、卒業もインターンも、その後のOPTも失う可能性があった。

アメリカで暮らして学んだことがある。

それは、常に最悪のケースを想定して行動することだ。

海外での生活を通じて、私は忍耐力、問題解決能力、そして柔軟性を身につけた。

それは何よりも大きな財産になった。


|世界に出て初めて気づいた日本人の強さ

海外で暮らしたからこそ、改めて見えたものがある。

それは、日本人や日本企業が持つ実行力と責任感だ。

対応の速さ。

仕事の正確さ。

そして、一人ひとりが責任を持って業務を遂行する姿勢。

日本では当たり前に感じていたことが、世界に出ると決して当たり前ではないことに気づかされる。

日本製品の品質の高さ。

医療現場の正確さ。

事故や医療ミスの少なさ。

そして世界トップクラスの長寿社会。

それらは長年にわたり積み重ねられてきた日本人の努力の結晶なのだと思う。

ニューヨークでの生活は、私に日本文化の価値を改めて教えてくれた。


|ギリギリで掴んだニューヨークでの仕事

提出期限まで残りわずか1週間。

私はようやく内定を得ることができた。

学校からインターン承認書類が届いたのは、就業開始日の深夜1時過ぎ。

まさにギリギリだった。

私は日本が誇る大手小売企業のニューヨーク支社でインターンシップを行うことになった。

オフィスはロックフェラーセンター内。

目の前には、映画『プラダを着た悪魔』でVOGUE編集部の撮影に使われたビルがそびえていた。

憧れ続けたニューヨークの風景がそこにあった。

そして無事に卒業し、その後はOPTを利用して別の日系企業でも働くことができた。


|オミクロン株感染――再び感じた生命の危機

2021年末から2022年初頭にかけて、ニューヨークではオミクロン株の感染が爆発的に拡大した。

私も感染した。

高熱は出なかった。

しかし数日間続く微熱。

激しい咳。

味覚障害。

耳鳴り。

全身の関節痛。

ベッドから起き上がることさえ困難だった。

「ただの風邪」ではなかった。

そして私は再び、生命の危険を感じていた。

25歳でがんを告知されたあの日と同じように。


|夢よりも、生きることを選んだ

ビザの有効期限はまだ残っていた。

予定より早い帰国だった。

それでも後悔はなかった。

できることは全てやった。

もし縁があるなら、また機会は巡ってくる。

そう思えた。

その頃の私は、キャリアよりも大切なものを知っていた。

それは「生きること」だった。

ニューヨークと日本を行き来しながら積み重ねた約10年の日々。

がんを乗り越えた経験。

コロナ禍を生き抜いた時間。

そのすべてが私に教えてくれた。

肩書きやビザではない。

人生で本当に大切なのは、今日を生きていることそのものなのだと。

そして私は強く願った。

「生きて、日本へ帰りたい。」

それは敗北ではなかった。

人生を選び直すための、新しい出発点だったのである。


|Quality of Lifeを考える

1.生きていること以上の成功はない

どれほど大きな夢も、健康と命があってこそ実現できる。

人生の土台は、まず「生きること」にある。

2.危機は本当に大切なものを教えてくれる

世界が止まった時、私が最後に守りたかったのはキャリアではなく命だった。

極限状態は、自分自身の価値観を映し出す鏡になる。

3.日本の価値は、世界に出て初めて見えてくる

日本人の誠実さ、責任感、正確さ。

それらは世界に誇れる日本文化の強みであり、私が海外で暮らしたからこそ実感できた財産である。

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この記事を書いた人

KANNA UEHARA
Quality of Life
Tokyo

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