25歳で、私はがんを宣告された。
母は「今すぐ全摘出してください」と言った。
そして私は、「すべての治療を拒否します」と答えた。
あの瞬間、診察室の空気は凍りついた。
それは、命を守ろうとする母と、未来を守ろうとする娘の衝突だった。
親子であっても、女性としての立場が異なれば、意見はまったく違う。
婦人科系がんは、出産を望む女性にとって「女性として女性を乗り越えなければならない試練」の一つなのだ。
|子宮体がんとは?若い女性には珍しいがん
子宮体がんとは、子宮の内側にある「子宮内膜」に発生するがんです。
一般的には閉経後の女性に多く、50〜60代の発症が最も多いとされています。
そのため20代で発症するケースは非常に珍しく、
私が告知を受けた当時も大学病院でさえ症例は多くありませんでした。
婦人科のがんは主に次の3つに分けられます。
・子宮頸がん
・子宮体がん
・卵巣がん
その中でも子宮体がんは、
女性ホルモン(エストロゲン)の影響を受けて発生することが多いとされています。
そのため、若年層では発症例が少なく、
当時の私のケースは医師にとっても珍しい症例でした。
25歳の私に、医師は静かに言った。
「子宮体がんです。」
その瞬間、私は人生で初めて
未来の選択肢を奪われた気がした。
|25歳で告げられた、極めて珍しい診断
がん告知の日、主治医は図を使いながら婦人科系のがんについて丁寧に説明してくれた。
婦人科のがんには大きく分けて二つある。
- 卵巣がん
- 子宮がん
そして子宮がんには、さらに二つの種類がある。
- ウイルスが原因の 子宮頸がん
- ホルモンが関係する 子宮体がん
私が告知されたのは 子宮体がんだった。
当時、この病気は主に閉経後の女性に多いがんとされており、
20代で発症する例は極めて珍しいと説明された。
私が治療を受けた1999年から2000年頃、
若年層の子宮体がん治療はまだ確立されていなかった。
若い女性の婦人科がんの多くは子宮頸がんで、
未婚で出産経験のない患者には、将来の出産の可能性を残す治療法も存在していた。
しかし——
子宮体がんには、それがほとんど適用できなかった。
|母の「全摘出」と私の「治療拒否」
告知の席には母も呼ばれていた。
医師の説明が終わると、母はすぐにこう言った。
「先生、今すぐ全部摘出してください。」
それを聞いた私は即答した。
「私はすべての治療を拒否します。」
診察室の空気は凍りついた。
主治医は、目の前で始まった親子喧嘩をしばらく呆然と見ていた。
母にとっては、
娘が生き残ることが最優先だった。
その気持ちは理解していた。
しかし当時の私にとって、
子宮を失うことは
- 結婚
- 出産
- 家族
未来のすべてを失うことのように感じられた。
母は結婚し、子どもを産み、
女性としての人生を生きてきた。
けれど私は、まだ何も始まっていなかった。
|がんサバイバーだった母
母の気持ちが分からないわけではない。
母自身も42歳のとき肺がんを経験していた。
背中を40センチ切開し、
肋骨を2本取り除く手術だった。
そのとき私は14歳だった。
若い患者ほどがんの進行が早いことを、
母は身をもって知っていた。
だからこそ母は
命を優先する決断をしたのだ。
|3ヶ月のホルモン治療という希望
最終的に主治医は、私の意思を尊重してくれた。
提案されたのは
3ヶ月のホルモン治療だった。
ホルモン剤を投与しながら、
数回の子宮内膜除去手術を行う。
3ヶ月後、がん細胞が消えていれば
子宮を温存できる可能性がある。
私はその可能性に賭けた。
しかし3ヶ月後の検査でも
がん細胞は消えていなかった。
このまま何もしなければ
いずれ転移し、確実に死に向かう。
私はようやく覚悟を決めた。
|手術の日、父がいた
手術の日、父が病院に来ていた。
私は実家を離れて暮らしており、
父は別の場所で単身生活をしていた。
父が有給休暇を取る姿など、
それまで見たことがなかった。
「行ってきます。」
私はそう言って、
静かに手術室へ入った。
後から聞いた話では、母は
「この子は脱走するかもしれない」
と思って父を呼んだらしい。
だがその頃の私は
すでに覚悟を決めていた。
|病棟に響いた母の絶叫
麻酔から意識が戻りかけたとき、
遠くで泣き叫ぶ声が聞こえた気がした。
うっすら目を開けると、
私は病室に戻っていた。
次に目が覚めたとき、
目の前に両親が立っていた。
父の目は赤く、
母も泣いた後の顔をしていた。
私は父に聞いた。
「さっき、すごい声が聞こえた気がしたけど…気のせい?」
父は静かに言った。
「気のせいじゃない。」
母は泣いていたのではない。
絶叫していた。
なぜなら両親は
摘出された私の臓器を見せられていたからだ。
人生で、自分の娘の子宮や卵巣を見る人など
ほとんどいないだろう。
|不幸につけ込む人たち
人が不幸に見舞われると、
そこに近づいてくる人たちがいる。
我が家にも来た。
「先祖が怒っている」
「供養しないと娘さんは助からない」
そう言って
高額な仏壇やお守りを勧めてきた。
だが私は、冷静に考えた。
もし私が死ぬとして、
私は残された家族や友人が不幸になることを望むだろうか。
答えは、絶対に違う。
そこで私は、こう言った。
当然、私も私が死んだとしても、私が死んだ後、
両親、友人達、職場の仲間達が幸せになり、私の分も長く生きてくれることを心から祈ります。もし先祖が怨念を持って悪さをしているのであれ、その怨念を全て私が背負っていきます。と言いました。
すると母が言った。
「なんであなたが背負うのよ。だったら私がそれを背負って先に行くわ。」
その言葉を聞いて、
宗教の人たちは大変驚き、
二度と我が家には来なくなった。
|ステージ3bという現実
手術前の検査では
- MRI
- 腫瘍マーカー
どちらも正常だった。
しかし摘出された臓器には
約8㎜の腫瘍が確認された。
告知時のステージは 1b。
だが3ヶ月の間に進行し、
最終診断は ステージ3bとなった。
その結果、
抗がん剤治療が確定した。
|私が守りたかったQuality of Life
子宮体がんの手術では通常
- 子宮
- 卵巣
- 卵管
- 周辺リンパ節
を摘出する。
特に欧米ではリンパ節切除が広く行われている。
しかしリンパを摘出すると、
浮腫が残ることがある。
脚が大きく腫れ、
スカートが履けなくなることもある。
私は主治医に言った。
「術後も、できる限りこれまでと同じ生活をしたい。」
もちろん命が最優先だ。
しかし可能であればリンパは温存してほしい。
主治医はメリットとデメリットを丁寧に説明してくれた。
そして私は
すべての治療を自分の意思で決めた。
その選択が、
今の私の Quality of Life につながっている。
Quality of Life この章の3つ
1
理想と現実は違う。
だが受け入れた瞬間、人は前に進める。
2
自分で決めた選択は、後悔にならない。
3
どんな状況でも、人は尊厳を守ることができる。
このあと、
本格的な闘病生活が始まる。
抗がん剤治療、
身体の変化、
そして心の揺れ。
Chapter 6 へ続く。
