その教室で、私は“沈黙する側の人間”だった。
けれど、その沈黙は、いつか破られる運命にあった。
なぜなら――私は「日本人として答えなければならない問い」に出会ってしまったからだ。
|人生最大の冒険は、がんの後に始まった
1回目のアメリカ滞在を終え、私は再び渡米する決断をした。
今度は「学位を取る」という明確な目的を持った長期滞在だった。
振り返れば、それは人生最大の冒険だった。
もし、25歳でがんになっていなかったら――
私はきっと、この選択をしていない。
人は、理由をつけて安全な道を選べる。
穏やかで、平凡で、予測可能な人生。
だが私は、あえて困難で不確かな道を選んだ。
がんを経験した私にとって、「無難な人生」では満足できなかった。
選択肢があるなら、“自分にしか生きられない人生”を選ぶ。
それが、私にとってのQuality of Lifeだった。
|バルークカレッジという“世界の縮図”
私が通ったバルークカレッジは、ニューヨーク市立大学(CUNY)の中でも、ビジネスに特化した学校だ。
マンハッタンの中心に位置し、ウォール街への登竜門とも言われている。
そこには、アメリカンドリームのスタート地点に立った若者たちがいた。
彼らは眩しかった。
自信に満ち、未来を信じ、堂々と自分の意見を語る。
日本との決定的な違いは、ひとつ。
「発言しない=存在しない」
それが、この国の教室だった。
|言葉の壁と、それでも評価された理由
私はスピーキングが、クラスで一番下手だった。
緊張すると、ジャパニーズアクセントはさらに強くなる。
プレゼンでは、何を言っているのか分からないと言われたこともある。
3分話すのが限界だった。
途中で止まることもあった。
でも――
そのたびに、誰かがフォローしてくれた。
プロジェクトのチームメイトは私の言葉をつなぎ、何倍にもしてくれた。
教授たちも、日本語の構造の難しさを理解していた。
エッセイ提出の前には、必ず「ランゲージセンターへ行け」という無言のルール。
時間は何倍もかかった。
それでも――
私のエッセイは、きちんと評価された。
なぜか。
それは、彼らが「正しい英語」ではなく、
「私の思考そのもの」を見ていたからだ。
|答えをくれない教育が、私を鍛えた
アメリカの授業では、答えを教えてくれない。
代わりに問われる。
「あなたはどう思う?」
「なぜそう思う?」
この問いから逃げることはできない。
私は、日本で受けた「道徳教育」と、
メディア専攻時代に叩き込まれた「自分の意見を持つ力」に救われた。
結果的に、それがアメリカで一番役に立った。
|差別を学ぶ教室で、沈黙を選んだ日
BLS 1003
「人種差別の進化と表現」
ある日、2014年に起きた警官による黒人少年射殺事件が議題になった。
8割が黒人だった教室の議論は激しくなっていた。
私は――黙っていた。
英語の問題ではない。
誤解されることが怖かった。
その時、ひとりの黒人女性が言った。
「私は何も言わない。言いたくもない。」
教室が凍りつく。
彼女は続けた。
「私の兄は警官。相手が銃を持っていたら、兄が死ぬかもしれない。」
誰も反論しなかった。
その瞬間、私は理解した。
正義は一つじゃない。
立場が変われば、真実も変わる。
|“日本人として答えよ”と言われた瞬間
期末課題は、エッセイとプレゼンテーション。
その時、教授が私に提案したテーマ。
「Japanese Americans and Internment Camps」
日系アメリカ人の強制収容。
一瞬、時間が止まった。
でも、私は即答した。
「やります」
それは、逃げてはいけないテーマだった。
|歴史の事実:日系人強制収容とは何か
1942年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は
大統領令9066号を発令。
第二次世界大戦中、約12万人の日系人が、
強制的に西海岸から立ち退かされた。
彼らの多くはアメリカ国籍を持つ市民だった。
家、土地、ビジネス――
すべてを失った。
収容所は、砂漠や荒地に作られた。
粗末な木造建築、劣悪な衛生環境、自由のない生活。
これは紛れもなく、
アメリカ史における重大な人権侵害である。
(※1988年、アメリカ政府は公式に謝罪と補償を実施)
|「アメリカを憎まないのか?」という問い
プレゼン後、私は問われた。
「あなたはアメリカを憎まないのか?」
パールハーバーを理由に、
原爆投下を正当化する声もあった。
でも私は、こう考えていた。
戦争は、国家の決断であり、
個人の善悪ではない。
特攻隊も、アメリカ兵も、
それぞれが「守るべきもの」のために戦った。
誰か一方だけを責めることはできない。
|祖母の言葉と、運命の皮肉
遠縁の親戚がアメリカ人と結婚した時、
家族や親族は反対した。
でも私の祖母だけが言った。
「あなたが選んだ人生を大切にしなさい」
その私の祖母の実兄は、特攻隊で亡くなった。
そして私は、
原爆開発が行われた“マンハッタン”に住んでいた。
かつて世界を分断した場所と、
いま自分が生きている場所が、一本の線でつながる。
運命という言葉では片付けられない、歴史は、時代や国境を越えて、
どこかでつながっているのかもしれない。
|Quality of Lifeという哲学
この章で、私がたどり着いた答えは3つ。
- 正義はひとつではない
立場が違えば、見える世界も変わる。 - 沈黙も選択だが、語る責任もある
私は沈黙した。でも、語るべき瞬間が必ず来る。 - 理解しようとする姿勢こそが共存の第一歩
違いを否定するのではなく、知ろうとすること。
世界は、簡単には分かり合えない。
それでも、人は理解しようとすることをやめてはいけない。
それが、私にとっての
Quality of Life =世界と共に生きる力だった。
